新宿から電車を乗り継いで4時間・・・どんだけ田舎だ、と呆れながら司は硬い座席に背中を預けたまま軽く伸びをした。少し頭が痛い。眠っていたようだが、よけいに疲れてしまった。嫌な夢を見ていたようだ・・・青。青い部屋。そして霧・・・貴方の器はからっぽだ、と誰かが言っていたような気がする。無限の可能性、ペルソナ・・・断片的な言葉だけが記憶に引っかかっている。ペルソナとは、対外的な表層人格、といった意味の心理学用語で、仮面という意味もあったはず・・・何のことだかさっぱりわからない。うたた寝中の夢に意味を求めても仕方ない。上等だ、と司は自嘲気味にうすく笑った。何の暗示か知らないが、確かに今の自分には何もない。
窓の外を流れる景色はすっかり様変わりしていた。遠くになだらかな山、緑の木々、田んぼ。心をなごませるのどかな風景も今の司の中に何の感慨も呼び起こしはしなかった。まもなく到着するはずの八十稲羽の町にしばし思いをはせる。母の生まれ育った町だ。何もないとこよ、小さい頃に連れていったことあるんだけど、憶えてない? そう言われても、全く記憶になかった。これから世話になる叔父の堂島遼太郎のことも、まるっきり憶えていない。他人の家にやっかいになる気分だ。
半年ほど前、可愛がっていた猫が死んだ。父も母も忙しい身でほとんど家にいなかったから、食事の世話をしてくれる通いの家政婦の他には身近な存在は子供の頃からずっとそばにいた、年老いた彼だけだった。いつも司のベッドに潜り込んできて一緒に眠っていた彼が、ある朝、冷たく硬くなって動かなくなっていた。猫は死期が近づくとふいに姿を消すというが、彼は司のそばでひっそりと息を引き取った。何度確かめても、どれだけ抱きしめても彼の身体は温かさを取り戻すことはなく・・・そのあと自分がどういう行動をとったのか、司は正直よく憶えていない。涙は出なかったと思う。司が学校で留守のあいだ世話をしてくれていた家政婦にはよく懐いていたので、彼女はひどく残念がって泣いていた。母も泣いた。しかし、司は泣くことはなかった。それから間もなくのことだ・・・指が動かなくなったのは。
指が動かなくなった、といっても日常的にではない。ピアノが弾けなくなったのだ。それも人前で演奏しようとする時に限ってだ。
司の母は若くして天才と謳われたピアニストで、現在も海外での公演をメインに活躍している。そんな母の影響を強く受けてか幼い頃からピアノを弾くのが大好きで、おもちゃで遊ぶかわりにピアノのキィを叩いていた司の才能は早々に開花した。ミューズに愛された、将来有望な二世天才少年ピアニスト、しかも司は女優のように美しいと評判の母親そっくりで、周囲は勝手に盛り上がったものだ。当然やっかみも多かったが、正直なところ悪い気はしなかった。音楽で食ってくのもいいか、などと漠然と考えるような、そんな曖昧な将来観しか持たない恵まれた、挫折を知らないただの世間知らずだった。と、司はわずか半年ばかり前の自分を冷やかな瞳で思い返す。
初めは、国内のピアノコンクール本選の舞台上だった。鍵盤に置いた指はこわばって動かず、頭がまっ白になった。突然胸が締めつけられるように痛みだして息ができなくなり意識をなくした。当然コンクールは棄権、それからだ。人前で弾くことを意識すると指が動かなくなり、息苦しくなって過呼吸に近いような状態になってしまう。しまいにはピアノに触れることすらできなくなってしまった。父の病院で心電図とか人間ドックだとか、心療内科の治療まで受けさせられたりもしたが、担当した医師は皆、一様に一過性のストレスだとか、どこも異常はないとか言って首を傾げた。ようするにお手上げ、ということなのだろう。当然だ。実際、どこも悪くなんかない。
司が通う高校は都内でも有数の進学校で、互いへの関心は薄く、友達といえるようなつきあいの相手はごく限られていた。司がピアノを弾くことすら知らないクラスメイトも多かった。競争意識ばかり高い息詰まるような空気の中では、誰しも自分以外の人間の失墜には敏感だし、どこからでも情報は漏れるものだ。将来を嘱望されていた優等生のピアニストが挫折。それは恰好の噂のタネとなり、しばらくのあいだ校内のどこにいても司につきまとい続けた。おかげですっかり有名人になってしまった。いわゆる負け組、ってやつか。司は淡々とそのスタンスを受け入れたが、そんな司の周りにはそれ以来どういうわけか、どちらかといえば素行の良くない、悪目立ちする者ばかりが集まってきた。一見すると優等生な司の中身とのギャップが彼らには新鮮だったのかもしれない。実際、競争意識を持たない彼らとの関係は楽で、司はのめり込みかけた。いささかモラルを欠いたつきあいをしていたのも事実だ。
そんな夏の終わり頃、ひとり息子の素行不良化を敏感に感じ取ったらしい母親が、ある提案を持ちかけてきた。
「ねぇ、遼太郎のこと憶えてる? 私の弟」
「知らない。誰?」
「あんたって、ほんと薄情よねぇ。昔いっぱい遊んでもらって、ずいぶん懐いてたんだけど。忘れちゃった?」
「・・・で、その遼太郎叔父さんが、どうしたって?」
「ほら、去年お葬式できて行ってきたじゃない。奥さんが亡くなって、やもめ暮らしなのよ。まだ小学生になったばかりの娘がひとりいるんだけど。あんたの従妹」
「だから、何なの。話が見えない」
「あんた、行ってこない? 気分転換もかねて、そうね・・・いっそのこと1年くらい」
「・・・は?」
「こっちは環境も悪いでしょ。いろいろと雑音も耳に入ってくるでしょうし。あっちは田舎で何もないけど、いいところよ。全部忘れて、まっ白になってみるのも悪くないと思うわよ。私は、あんたがこんなことでダメになっちゃうような器だとは思ってないわ」
お友達は選ばなきゃね。キリのいいところで来年の4月からどう? とにっこり微笑まれて、ぐうの音も出ないとはこのことだ、と司は諦めた。司にとって、母の言葉は昔から絶対なのだ。何が悲しくて田舎暮らしなんか、と一応ゴネてはみたが、一蹴された。
「あんた仁恵さんに料理教わってるじゃない。菜々子ちゃんにいっぱいおいしいもの作ってあげてちょうだいよ。遼太郎が料理なんかしてるわけないし、あの子の食生活を思うと不憫でならないのよ。お願いだから」
なるほど。本音はそこか。しかし、思い切って環境を変えるというのは悪くない話かもしれないとは思った。知っている人間が誰もいない土地に行って、違う生きかたをしてみるというのも・・・。
違う生きかたって何だ、と司は思う。辛いことから逃げて、楽なほうへ転がりかけて・・・そうだ、結局は逃げてきただけだ。どうしたらいいのか、何がしたいのかわからなくなって、母が用意してくれた都合のいい逃げ道へと後先考えず駆け込んだ。わからないんじゃない、見たくないだけだ・・・中途半端なままですべてを投げ出す自分の、どうしようもない情けなさを。
陽はすっかり落ちていた。薄闇に包まれたプラットホームに降り立つ。人の姿もまばらな駅構内は静まりかえっていて、遠ざかる電車の振動音だけがもの悲しく響くばかりだ。
ひとつしかない改札を抜けて駅舎の外に出る。確か叔父が迎えに来てくれているはずだ。
「おーい、こっちだ」
間延びした男の声が聞こえる。振り向くと、手を振りながら近づいてくる人影を見つけた。あの人が堂島遼太郎だろうか。男の腰の後ろにまとわりついて、身を隠すようにこちらを見上げている女の子がいる。この子が、従妹の菜々子だろう。はじめまして、と挨拶しようか迷ったが、昔は懐いていたんだと母が言っていたのを思い出してためらっているうちに男が笑いながら親しげに声をかけてきた。
「大きくなったな。まぁ、俺が会ってるのはお前がまだ小さかった頃だからな。それにしても、えらい別嬪に育ったもんだ」
「・・・はぁ?」
耳慣れない言葉に、思いっきり間抜けな返事を返してしまった。
堂島は笑いながら続ける。
「憶えてないかもしれんが、俺が堂島遼太郎だ。よろしくな」
「お世話になります」
「なんだ、他人行儀だな。しばらくは家族として暮らすんだ、もう少し気楽にしたらどうだ。ほら、菜々子。挨拶しなさい」
堂島に急かされて、菜々子はおずおずと前に出てきた。不安げなようすで司を見上げてくる。「よろしく、菜々子ちゃん」と表情を和らげて声をかけると、真っ赤になって下を向き再び堂島の背中に隠れてしまった。
「なんだ、こいつ照れてるのか」
ははは、と声をあげて笑う堂島を菜々子が両手でばしんと叩く。荷物はそれだけか、車はこっちだ、と促されて後について歩き出すと、菜々子が窺うようにそっとこちらを振り返った。もう一度笑いかけてみると、今度はほっとしたように少しだけ笑顔になった。
雨の気配を忍ばせるように空気が湿っている。これからしばらくの間は、この町で暮らすことになるのだ。まばらな街灯と窓明かりに照らされて仄かに浮かび上がる景色は、雨上がりのようにしっとりした白い霧に隠されて見通しが悪かった。
まるで、自分の未来を暗示しているみたいじゃないか。
らしくもない感傷にとらわれて、ふと笑いがこみあげる。
そんな司を、傍らを歩く菜々子が不思議そうに見上げていた。
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